[10] 興徳寺 真柄十郎左衛門墓所
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☆ 説明の末尾に「(配付説明書)」とあるものは、田島氏(みなと塾)が作成し、当日参加者に配布された解説パンフレットから引用しているものです。
- 興徳寺 真柄十郎左衛門墓所 福井県越前市宮谷町29-20
- 越前国真柄荘の国人として朝倉氏の客将となり、上真柄の地に居館を構えた。
但し、真柄氏は朝倉家中では堀江氏などと共に、在地性・独立性が強い国人衆で、越前に足利義昭が頼ってくるまで、朝倉氏に臣従的態度を取りつつも、軍役を一部負担するだけ(すなわち被官)という立場で、朝倉家の完全な家臣という立場ではなかった
十郎左衛門直隆は朝倉家中でも武勇に優れ黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴国安の作による五尺三寸(約175センチ)もの太刀を振り回して戦ったという
元亀元年(1570年)、姉川の戦いで朝倉陣営の敗戦が濃厚になると、味方を逃がすべく単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。
だが向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我が頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた。
この時、向坂兄弟が討ち取った太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになっている。
なお、弟・直澄と子・隆基も勇猛で知られたが、この戦いで討死している。だが、朝倉氏滅亡後の天正11年(1583年)に「真柄加介」宛てに丹羽長秀から知行安堵状が発給されており、一族はその後も存続していることが窺われる。
太郎太刀は現在、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されている。
熱田神宮にある物が直澄の次郎太刀で、白山比咩神社にある物が直隆の太郎太刀(藤島行光作刀)という説もある。
(配付説明書)
- 専照寺(中野本山)と平保盛の繋がりについて
- 専照寺開祖の妙導上人の4代前の先祖が平康頼である。
康頼は信濃守中原頼李の子で、明法道の家柄に生まれた。
平保盛が越前の国司に任じられ、18歳の康頼も越前国に派遣された。
「平」の姓を贈与されたのは、この頃と思われる。
康頼が尾張国に在任中に左衛門に任じられ、平判官と称した。
応安3年(1177)、鹿ケ谷の山荘で、藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密儀に参加した。
しかし多田幸綱の密告により、策謀がもれて康頼も捕縛され、俊寛、藤原成経と共に薩摩国鬼界ケ島に流された。
配流先で京を懐かしむ成経、康頼は、千本の卒塔婆に望郷の歌をしるし海に流した。
そのうちの一本が厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は、赦免を行った。
成親と康頼は赦免されたが、俊寛は放免されなかった。
足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来た際、御前で大太刀を軽々と頭上で数十回振り回し、豪傑ぶりを披露したという。
(配付説明書)
【参 考】
15:33-16:05 興徳寺 真柄十郎左衛門墓所
興徳寺
興徳寺
興徳寺
お地蔵さん
お地蔵さん
本堂
本堂
本堂
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓
真柄十郎左衛門の墓