[08] 城福寺 平家一族の菩提寺
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☆ 説明の末尾に「(配付説明書)」とあるものは、田島氏(みなと塾)が作成し、当日参加者に配布された解説パンフレットから引用しているものです。
- 城福寺 平家一族の菩提寺 福井県越前市五分市町11−26
- この寺は、平忠盛の正室で、平清盛の継母にあたる池禅尼の孫である平保盛が建立した。
平治元年(1159)、平治の乱において、複雑な政争を勝ち抜いた平清盛が勝利し、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。
翌永暦元年(1160)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が捕らえられた。
このおり池禅尼は、清盛に対して頼朝の助命を嘆願したといわれている。
頼朝の助命のために、池禅尼が断食をし始めため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪にした。
これは、頼朝が早世した我が子家盛生き写しだったことから、禅尼が助命に奔走したといわれている。
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆で挙兵したあとも、その息子頼盛を厚遇し、平家滅亡後もその一族は朝廷堂上人および幕府御家人として存続した。
平家滅亡後保盛は、平家一族の都落ちには従わず、父頼盛の荘園があったことと保盛自身が越前守になったこともあり、文治年間(1185~1189)に乳母を頼って来越した。
建久年間(1190~1198)、釈門に入り西海に亡んだ平家一門の菩提を弔うなか、たまたま承元元年(1207)親鸞聖人北国御流罪にあたり、強化を受けてその弟子となり、如成という法名をうけ一寺を建立し、これを浄福寺と名付けた。
一向一揆と織田信長の関係で、天正元年(1504)五分市町に、更に寛永元年(1624)この地に寺域を移した。
(配付説明書)
- 浄福寺庭園
- 浄福寺庭園は国指定の名勝となっていますが、江戸中期元禄時代に造られた借景築山式蓬莱枯山水の苔庭で、遠方に連綿と続く日野山系を庭園の一部に取り入れ、手前の柊(天然記念物)を最も近くの山とみなしている。
一面の苔は大海を表し、その起伏はあたかも波のようです。
東から西へ舳先を向けて舟が浮かび、中央やや左に鶴島、右寄りに亀島がある。
築山から流れ出る川は鶴島の右側を経て大海に注ぐ。
亀島の後方には岬や船着き場も見ることができる。
江戸時代には越前福井藩主が参詣、観桜のためその後も代々訪れている。
現在の住職池保氏は、平家第36代、第24代城福寺住職となる。
(配付説明書)
【参 考】
14:12-14:57 城福寺 平家一族の菩提寺
寺門の前の茶畑
茶畑
茶畑
お茶の花
お茶の花
茶畑
城福寺
城福寺
城福寺
城福寺
花筐(はながたみ)の桜
花筐(はながたみ)の桜
花筐(はながたみ)の桜
花筐(はながたみ)の桜
城福寺庭園
城福寺庭園
城福寺庭園
ヒイラギ
ヒイラギ
ヒイラギ
ヒイラギ
ヒイラギ
ヒイラギ
御成座敷
御成座敷
御成座敷
御成座敷
御成座敷
御成座敷
平家一門供養塔
平家一門供養塔
平家一門供養塔
俊寛僧都供養塔
俊寛僧都供養塔
俊寛僧都供養塔