[03] 大塩八幡宮
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☆ 説明の末尾に「(配付説明書)」とあるものは、田島氏(みなと塾)が作成し、当日参加者に配布された解説パンフレットから引用しているものです。
- 大塩八幡宮 福井県越前市国兼町22−2
- 仁和3年(887)、中納言紀友仲が無実の罪で、越前国府に流罪となった時、石清水八幡神に祈願したところ、寛平元年(889)に見事念願成就し、無実の罪を晴らすことができました。
中納言は神意に感謝し、寛平3年(891)、この地に岩清水八幡神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。
以来、郡内二宮として広く信仰を集め、歴代領主や為政者からも崇敬された。
寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲は、その後も勝利を重ね大塩八幡宮の境内に本陣を構え、戦勝祈願をしたと伝えられている。
その際、兵火によって社殿が焼失したため、日吉山王社の拝殿を移築した。
南北朝時代の建武年間(1334~1338)には、斯波高経により社殿の造営が行われ、その後に越前守護職の朝倉氏からも崇敬庇護され、明応4年(1495)には朝倉貞景が一の鳥居を、明正10年(1513)には朝倉孝景が荒垣門を、天文21年(1552)には朝倉義景がこの鳥居を寄進し社運も隆盛した。
天正年間(1573~1592)の一向一揆の兵火で一時衰退した時期もあったが、江戸時代にはいると歴代の福井藩主が庇護し、慶長8年(1603)、結城秀康が社領30石を安堵し、家老で府中領主である本田富正は、武運長久を祈願して鞍(福井県指定文化財)や梵鐘(越前市指定文化財)、元和9年(1623)には松平忠直が社領20石を加増している。
大塩八幡宮は古くから神仏習合していたが、明治時代の神仏分離令により仏式が排され、明治4年(1867)に郷社、明治7年(1870)県社に列した。
境内には梵鐘や神社、山門が残されるなど、神仏習合の名残がみられる。
大塩八幡宮の境内社には、延喜式神名帳に記載された式内社の高岡神社、天八珀萬比咩神社が連座している。
祭神は帯中日子天皇、応神天皇、神功皇后。
現在の大塩八幡宮は、室町時代末期に建てられたと推定される長床式の建物で、入母屋、こけら葺、桁行7間、梁間4間、5間×2間の身舎に1間の庇、外壁は柱のみの吹き放し、大型で組物など当時の様式を伝えるものとして、昭和53年(1978)に国指定重要文化財に指定されている。
(配付説明書)
【参 考】
10:54-11:16 大塩八幡宮
大塩八幡宮境内案内図
大塩八幡宮
大塩八幡宮
大塩八幡宮
大塩八幡宮
大塩八幡宮
梵鐘
梵鐘
梵鐘
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
境内社
境内社
境内社
境内社