[08] 永賞寺

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☆ 説明の末尾に「(配付説明書)」とあるものは、田島氏(みなと塾)が作成し、当日参加者に配布された解説パンフレットから引用しているものです。

戦国武将、敦賀城主大谷吉継の菩提寺 (配付説明書)
 
敦賀市: 永賞寺
 永賞寺の創建は天文16年(1547)に開かれたの始まりと伝えられています。当時は寺運が隆盛し塔頭4院、末寺3ヶ寺を要した大寺でしたがその後、規模を縮小し荒廃しました。当初は天台宗の寺院で東郷中区にありましたが天正19年(1591)に当時の領主大谷吉継が現在地に移し、武山栄文禅師を招いて再興しています。その際、回船問屋で財を成した道川家を開基とし曹洞宗に改宗、寺号を永昌寺から永賞寺に改め、自らの菩提寺としました。
 
大谷吉継
永禄2年(1559)~慶長5年9月15日(1600.10.21) 享年41歳
 近江国で生まれる。天正の初めの頃、羽柴秀吉の小姓となる。
 織田信長の播磨攻略の際には、福島正則、加藤清正等とともに秀吉の馬廻衆として活躍。天正13年(1585)秀吉が関白となったとき、吉継も従五位下形部少補に叙任された。
 これにより「大谷形部」と呼ばれるようになる。
 天正14年(1585)、九州征伐に石田三成の下で参陣、同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。
 天正17年(1589)、越前国敦賀郡、南条郡、今立郡の五万石を与えられ敦賀城主となる。
 吉継は、蜂谷頼隆の築いた敦賀城を回収した。
 秀吉の命を受け、常宮神社を再興、朝鮮から持ち帰った鐘を奉納、八幡神社に本殿の欄間飾りや、鳥居、灯籠などを寄進している。
 慶長5年(1600)、徳川家康は会津の上杉景勝討伐に向かうが、吉継も三千の兵を率い討伐軍に参加するべく敦賀を出立するが、途中石田三成の居城である佐和山城へ立ち寄る。
 ここで三成から家康打倒の挙兵を持ち掛けられる。吉継は三度にわたり「三成に勝機はない」と説得するが、三成の固い決意を知り、熱意にうたれると敗戦を予測しながら西軍に与した。
 同年9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いが開始された。
 吉継は、藤堂、京極両軍を相手に奮戦するも、小早川秀秋の裏切りにより東軍の勝利となった。
 西軍の諸将が戦場を離脱するなかで[吉継が]自害をしたのは、秀秋が、吉継の実母である東殿が最も信頼をおく北政所の甥であることから、秀秋に討たれることで北政所の恩義に報いようとした結果の討ち死にではないかといわれている。
     辞世の句  契りあらば 六の港にまてしばし おくれ先立つ 事はありとも
 この句は、戦闘中に決別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世
     君がため 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思えば
への返句となっている。
 吉継の娘は、真田信繁の正室。 (配付説明書)
 
松平忠直
元和9年(1623) 2月 幕命により配流決定
        3月 母 清涼院が越前へ
           北ノ庄出立(勝姫[は]、光[長らと]江戸へ)
 丹生郡河野浦より舟便で敦賀へ。
 永昌寺に一月あまり逗留。京の仏師に依頼した、父秀康公の木像の到着を待って、北ノ庄孝顕寺の三陽和尚を招いて供養をおこない、父秀康と決別した。(一説には、仏像は本多富正(府中領主)が京まで上り、持ち帰ったともいわれる。)
 尚、大阪の陣で、西尾仁左衛門が打ち取った真田信繁の愛馬を「真田栗毛」と名付け、豊後まで連れて行っている。 (配付説明書)

【参考リンク】