[28]光明寺用水(芝原用水)
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[28]光明寺用水(芝原用水)
[28]光明寺用水(芝原用水)
[28]光明寺用水(芝原用水)
[28]光明寺用水(芝原用水)
結城秀康が入国し,松岡の芝原郷から九頭竜川の水脈を上水道として城下に引水したことから名付けられた芝原用水の分流であるこの用水は
飲用水としても重要で上水奉行が管理していた。
参考リンク
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『 光明寺用水をはじめとした芝原用水水系は、九頭竜川の左岸をする水路であり、その歴史は古く、開削は1607年になります。当時の福井藩主結城秀康の命により、家老の本田富正が城下の飲料水を確保するため開削したと言われています。明治時代には近代的な水道施設が整備され、芝原用水の上水道としての役割は終わります。』
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『 光明寺用水は、越前福井初代藩主結城秀康が城下町の整備とあわせ開削した芝原用水の内輪の支線にあたります。』
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『…1級河川九頭竜川から取水した芝原用水の支線で、その芝原用水の歴史は古く、完成1607年で、古くから造られていたかんがい用水路を整備したものといわれている。当時の福井藩主結城秀康により、城下に飲料とするため上水として芝原用水が整備され、その範囲は68ヶ村にもおよんだ。しかし、当時は飲料水として優先されたため、厳しい利用制限が行われ、かんがいに用いることは従属的に考えられていた。光明寺用水は芝原用水の支線にあたる。光明寺用水は、平成7年より水環境整備事業で整備され、護岸は景観に配慮した張り石で施工。また、整備の際、福井産のしゃくだに石を積んだ水路護岸が現れ、当時の用水路の状況を知る貴重な資料となった。』
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『光明寺用水の由来(荒原用水)
光明寺用水は芝原用水の分流なり。福井鍵町に錠あり。昔境・菅谷・大瀬三村の戸長は殿様に進言し、この錠の水を三村に下されんことを請う。もし江を掘ると雖も、土地高低のため上水の通ぜざる時は、三戸長は自ら首を捧げんと誓約す。因りて福と大瀬の両端に火を点じて硯きみるに、果して大瀬の地は低く見ゆ、これにて大丈夫なりと三村民力を合わせて水路を掘る。かくて水を通ぜんとするに、光明寺近くの堤に弱所ありて、意外にも水は田地に溢れ、あわや三戸長の首も風前の灯となり果てんとす。この時に際し、光明寺の住職人命を助くるはこの時なりと、手早く寺の疊を取出して水口を堰き止め、水をば荒川の水路に流したり。かかる大恩ありしにより三区の民は今尚毎年貢物を持ちて寺にお礼詣りすという。』
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福井県福井市照手1/2/3 ◆ Google ストリートビュー(別タブで表示され、史跡附近の風景を見ることができます)