[24]橘曙覧宅(藁屋)跡
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[24]橘曙覧宅(藁屋)跡全景
橘曙覧の宅跡
袖干の井
袖干の井
袖干の井
膝いるゝばかりもあらぬ艸屋を竹にとられて身をすぼめをり
橘曙覧37歳(1848)の時足羽山黄金舎(こがねのや)から転居した。その後43歳で曙覧と改名し,この地で没迄20年間暮らした。
【
以前の『ホームページ(2006)』における『地区案内』での説明を読む/たたむ】
この藁屋は,江戸時代の終わりに福井の生んだ日本の有名な歌人,橘曙覧の住んだ家の跡です。
嘉永元年(1848)曙覧37歳のとき,足羽山の登り口の黄金舎(こがねのや)<現在の橘曙覧記念館のところ>から三ツ橋<現在の照手二丁目>に移り,慶応4年(1868)8月28日57歳で病没するまで約21年間ここに住みました。
貧しい生活に甘んじながら直子夫人と力をあわせ,3人の男の子を立派に育てました。
そして,誰も真似のできないわかりやすい歌をたくさん作りました。
慶応元年(1865)2月26日に藩主松平春嶽公がこの粗末な家にお成りになりました。
濡らしこし妹(いも)が袖干(そでひ)の井の水の
湧出るばかりうれしかりける
20年間貧乏で,もらい水の生活をしていたが,やっと井戸を掘ることが出来,妻に苦労をかけないで済むようになったという喜びの歌。
【歌 碑】
膝(ひざ)いるるばかりもあらぬ草屋(くさのや)を
竹にとられて身をすぼめおり 曙覧
参考リンク
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『 江戸時代の歌人橘曙覧が、37歳の時に足羽山の黄金舎から三ツ橋(照手2丁目)に居を移し、ここを藁屋と称しました。当時の藁屋は2階建て高さ1丈5尺、屋根は総コケラぶき、入り口は南向き、階下は北向きの座敷8畳半の西に並んで6畳間、座敷の南に接して4畳半、それに板敷の台所並びに流し元という間取りでした。安政元年(1854)に大火のため藁屋が消失し、安政3年に再建覚ました。
また曙覧の妻が約20年間のもらい水の労苦から開放されたことを喜んだ「袖干の井跡」が見られます。』
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- 橘曙橘曙覧年譜:福井市橘曙覧記念文学館 【←このリンクは別タブで開かれます】
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福井県福井市照手2-5-13 ◆ Google ストリートビュー(別タブで表示され、史跡附近の風景を見ることができます)